グリーグの付曲で有名な《ペール・ギュント》を、現代日本風にアレンジ。生まれ落ちた社会の様々な仕組みに、何の疑問も持たずに翻弄される人々を、舞台上で動き回る標識やサーバー役(写真中央)を用いて表現。原作のテーマでもある「自分とは何か」という問いを客席に投げかけた。本公演にあたっては脚本執筆も手掛ける。
首藤健太郎による「金子みすゞの詩による歌曲集」、美術家の岩谷駿、安倍田そらの、國光裕子、古賀真弥、野村綾香の各作品をまとめ上げる形で創作した、オリジナルの音楽劇作品。尺八・日本舞踊を編成に取り入れ、日本らしさも色濃く出した。本作品にあたっては、脚本・演出に加え、ピアノ演奏も手掛けた。
モーツァルトのロンド a minor K511をベースに、ある女性と「世間」との闘いを綴り、人間社会の排他性とそれによる悲劇の連鎖を描く。
傘とオルゴールを主要なアイテムに設定。音楽の力によって、雨模様の空に虹がかかってゆくように、バスティアンとバスティエンヌあるいは2人を取り巻く人々の心が晴れやかになる様相を表現した。
鳥や羽といったモティーフで舞台全体を統一。子供達の成長を、籠に閉じ込められていた鳥達が飛び立つのに見立てた。
一方で、魔女を「大人達の集積体」と解釈し、現代社会のひずみにも目を向けた。
ピアノでの上演という環境を活かし、物語全体をあるミュージック・カフェでの出来事という設定に読み替えた。嫉妬深く疑い深い店長/店で人気の歌手である妻/妻にひそかに想いを寄せつつも懸命に夫婦の仲を取り持とうとする若い店員の3名が、人間味あふれるドラマを展開する。
ヴェリズモオペラの代表作《アンドレア・シェニエ》から、第1幕のシェニエのアリアと第3幕のマッダレーナのアリアを、抜粋・合体して上演。シェニエのアリアでは音楽を四季ごとに区切り、その変化を日本舞踊で表現。マッダレーナのアリアでは終始赤い布を用いたシンプルな演出で、マッダレーナの不動の愛の力を表現。枕詞を重ねて愛する人への想いへとつなげてゆくシェニエと、ストレートに想いを語るマッダレーナとの、2人の愛情表現の対比を示した。
4名のテノールで、カンツォーネ付の寸劇やオペラの名場面を上演。フィナーレではオペラのヒーロー達がいっぺんに集まったらどうなるか!?という劇を行った。
本来であればバレエ団や合唱団が必要なグルック《オルフェオとエウリディーチェ》を、小規模なコンサートサロンで上演出来るよう再編。「ふれあい」をテーマに、オルフェオとエウリディーチェ、そしてかつては生ある人間であったであろう亡霊達のコミュニケーションに焦点を当てた。
「ドゥーカの孤独」をテーマに、《リゴレット》の第1幕・第2幕を再構成。愛を知りたいと彷徨い、女性という存在に憧れを抱く公爵と、その希望を軽妙かつ残酷に打ち砕く廷臣達とを対比させた。(撮影: 高田慧)
「時計」に代表されるような機械によって、人間は時に対する繊細な感覚を失いつつあるのではないか…そんな問題意識を、露骨に変わる空の色とそれを敏感に感じるヒロイン(逆に鈍感な男性達)の芝居で提示した。
(撮影:高田慧)
死をもって蘇生する「夜」の世界を、1枚の大きな絵で表現。繋がりかけては壊されきた絵が、物語の結末に向かって完成してゆく。(撮影: 長澤直子)
舞台全体に一貫して折り紙を使用。夫を待ち続ける蝶々夫人を、折り紙を折り続ける女性として表現し、折り紙の美しさと脆さを蝶々夫人の人物像に重ねた。折り紙に宿るメッセージ性や見立ての心、そして折る動作に表れる人物の心情を、ドラマ創りに活かしている。(舞台写真→演奏家写真.com、美術写真→歌劇団Kamiteスタッフ)
ステータスや名誉に振り回される人々の様相を、舞台上に頻繁に現れる文字や文字に関わる道具でコミカルに表現。劇が進むごとに表面が剥がれ、最後は結婚誓約書になる背後のパネルも、舞台を楽しむ大きなポイントとなっている。
2015年に福岡で発表した「葵上」の再演版。再演にあたって「葵上」の前に、やはり能をベースにした新作戯曲「砧」を加えた。両演目とも作品世界の核に、ヴェルディのオペラ《マクベス》よりマクベス夫人の夢遊病のアリアを置いている。撮影:平舘平
衣桁を一貫して舞台装置として扱い、そこに何が掛けられるか、どのように掛けられるかによって、登場人物の心情や状況を表現した。第1幕終わりから出現する大量の布は、ピンカートンが渡る海の象徴であると同時に、蝶々夫人の想いの丈でもある。
モーツァルト《コジ・ファン・トゥッテ》を、本演出に合わせたナレーションと台詞を交え、約2時間の版にアレンジ。肖像画と生身の役者との対比や、仮面・花弁といった象徴的な小道具の使用によって、繊細な男女の心模様を表した。
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